秩父宮ラグビー場はなぜ神宮ラグビー場ではなく「秩父宮」なのか?
新宿、渋谷、赤坂、六本木の4地点の真ん中にあり、歩いてもそれぞれ30分程度という抜群の場所にある秩父宮ラグビー場。
東京23区内にはJリーグを開催できるサッカー専用スタジアムがなく、その抜群のアクセスのよさにはサッカー関係者が羨むほどだ。
隣接する神宮外苑には神宮球場や新国立競技場など様々なスポーツ施設が点在するが、秩父宮ラグビー場は歴史的背景から他の施設とは一線を画している。
ラグビー観戦をする前にラグビーの聖地である秩父宮ラグビー場の歴史を知っておく事で愛着が増すだけでなく、話のネタにもなるはず。
そこで、ここではその歴史をわかりやすくまとめてみた。
秩父宮雍仁親王と秩父宮ラグビー場の歴史

秩父宮雍仁(やすひと)親王は大正天皇の第二皇子で、昭和天皇の弟宮。
「秩父宮」という宮家は、雍仁親王が20歳で成年式を迎えた時に創設されたもの。
雍仁親王は後に「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれるほどラグビーをはじめとするスポーツの発展にご尽力されたことで知られている。
1925年(大正14年)、秩父宮雍仁親王と日本ラグビー協会関係者がイギリス視察後にラグビーの専用競技場の建設を神宮外苑に求めたものの、国際情勢の悪化により断念することになった。
現在の秩父宮ラグビー場がある一帯は元々「女子学習院」という女学校だったが、昭和20年の東京大空襲で全て焼失し、焼け野原となってしまう。
戦後の昭和22年には、それまでラグビー場として使っていた別の場所にある競技場が進駐軍に接収された。
そこで新たなラグビー専用競技場を作るため、ラグビー関係者有志が検討した結果、旧女子学習院の跡地に建設することに。
しかし建設費用がなかったため、5大学(早慶明東立)のOBが中心となり、焼け残った時計やカメラ等を売り払ってお金をかき集め、なんとか鹿島組と建設の契約を締結。
現場においてもラガーマンが無償で手伝うなどして工事が進んでいった。
ある日のこと、ラグビー協会の総裁になっていた秩父宮殿下が工事現場を訪れ「ラグビー協会は貧乏だからよろしく頼む」と頭を下げると工事関係者は涙を流したという。
当時は戦争が終わったばかり。
天皇陛下の弟宮は神のような存在だったのだろう。
そして昭和22年11月に「東京ラグビー場」として完成、11月22日に明治OB対学生選抜、明治対東大によるグラウンド開きが行われた。
昭和28年に秩父宮殿下がご逝去されると、ラグビーに対する愛情とご厚意に感謝し、東京ラグビー場を「秩父宮ラグビー場」へ改称、今に至っている。
数あるスポーツの中でも秩父宮殿下がもっとも愛したのはラグビーだった。
学生時代にはイギリスのラグビーの名門校オックスフォード大学に留学、そこでケンブリッジとの対抗戦も観戦するなど楽しんだという。
また、秩父宮殿下が昭和4年に関西視察でに現在の東大阪市で降車した際「ここにラグビー場を造ってはどうか」と提案。
これをきっかけに誕生したのが「花園ラグビー場」だ。
ラグビーの聖地・メッカとして「西の花園、東の秩父宮」と言われることがるが、どちらも秩父宮雍仁親王のラグビー愛なしでは、建設されることはなかった。
秩父宮ラグビー場は時代の波に翻弄されながらも、ラグビーを愛した秩父宮殿下、建設に協力したラグビー関係者など、ラグビーの発展を強く願った方が作ったスタジアム。
秩父宮ラグビー場は建て替えが決まっているが、先人の想いを受け継ぐ新しい秩父宮ラグビー場が建設されることが求められる。
※参考文献(鹿島HP、秩父宮ラグビー場HP)